広島高等裁判所 昭和63年(う)97号 判決 1990年5月17日
主文
本件各控訴を棄却する。
当審における控訴費用は、その二分の一ずつを各被告人の負担とする。
理由
本件各控訴の趣意は弁護人神田昭二、同真田文人連名作成の控訴趣意書および弁論要旨各記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官佐藤博敏作成の答弁書及び検察官永瀬榮一作成の弁論要旨各記載のとおりであるから、ここにこれらを引用する。
これに対する当裁判所の判断は次のとおりである。
論旨はいずれも要するに、原判決は、被告人株式会社○○タクシー(以下被告会社という。)の代表者代表取締役である被告人甲野一郎(以下被告人という。)が、被告会社の業務に関し、法定の除外事由がないのに、業務上の負傷である外傷性頭頚部症候群等の療養のために休業中の被告会社従業員乙川二郎を解雇したと認定したが、右解雇の時点において、右乙川において休業加療の必要はなく、従って同人は療養のために休業していたものではなかったのであり、また被告人は本件解雇当時右乙川において既に休業加療の必要がないものと認識していたのであるから本件違反についての犯意がなく、これらの点において原判決には判決に影響を及ぼすべき事実誤認があるというものである。
そこで所論に鑑み記録を調査して検討するに、原判決挙示の関係証拠を総合すれば、原判示のとおりの事実(但しその罪となるべき事実の記載に若干の問題があることは後記のとおり。)を認定することができ、当審における事実取調べの結果によるも右認定を左右するに至らない。以下に所論の要点に即して若干の説明を加える。
一 関係証拠によれば次の事実を認めることができる。
1 前記乙川は昭和五五年一〇月五日午前二時頃、被告会社のタクシー運転業務に従事中に追突事故に会い、一旦近くの病院で治療を受けた後、その翌日の同月六日から約二週間外傷性頚部挫傷、腰部挫傷の診断病名で大竹外科病院に入院し、以後通院加療中、同年一二月二五日松浦整形外科医院(以下松浦医院という。)に転医して通院加療していたものであるが、その当時の同人の症状は主訴に基づく頭痛、後頭部痛、腰痛、手指のしびれ等であった。
2 翌昭和五六年九月一四日頃、右松浦医院の松浦医師は乙川の頭部のレントゲン検査によりその頚椎六と七の間に石灰化像を発見して、これが前記交通事故に起因するものと考えるとともに、それがために右乙川の症状が治癒ないし軽減しないものと判断した。またこれに伴って乙川はその翌日頃から同年一二月一八日頃まで入院して治療を受け、その後更に通院治療を続けていたが、その頃の乙川の主訴は頭重感、腰痛、耳鳴り、睡眠障害等である。
3 被告会社が乙川を解雇したのは、原判示のとおり、昭和六一年七月二五日であるが、その当時においても、右松浦医師は頚椎捻挫、腰部挫傷、外傷性頭頚部症候群、頚椎々体骨折との診断名で療養、休業の必要があると判断していた。
以上の事実を認めることができる。
二 ところで、所論はまず、原判決は乙川の病名を「外傷性頭頚部症候群等」と認定しているが、原審における松浦医師の証言その他関係証拠によると、乙川の症状は主として石灰化によるものとされている一方で、これが「後縦靭帯骨化症」とも表現されており、この両者の関連性が明白にされていないのに、安易に「外傷性頭頚部症候群等」と認定した原判決は事実を誤認したものである。そしてまた、右石灰化ないし骨化症が前記交通事故によって生じたものであると認定するに足る証拠もないから、これにつき乙川が療養を要したとしても、そこには業務起因性が認められず、この点においても原判決には事実誤認があると主張する。(なお、これらの点に関して所論は理由不備を言うけれども、その実質は事実誤認の主張に帰するものと解される。)
そこで検討するに、確かに所論指摘のように、原審証拠上では乙川の症状につき石灰化ないし骨化症(なお、<証拠>によれば、現在ではこれらを統一して骨化ないし骨化症と呼称されるようになっていることが認められる。)が重視されていることが認められるのであるが、一方において右骨化と前記交通事故との間の因果関係の存在を全く否定することができないことは後記のとおりであるうえ、<証拠>によれば、本件の場合むしろ外傷性頭頚部症候群を基本的病症とし、これに頚椎後靭帯骨化症が加わったものと考えるのが妥当であると認められるから、乙川の傷病名を「外傷性頭頚部症候群等」とした原判決の認定に誤りはない。
また<証拠>によれば、最近の研究では、靭帯骨化が形成される原因は何らかの先天的な要因に老化現象や長い間に蓄積された外力の影響が加わったためと考えられており、本件においても前記交通事故のみが原因となって骨化が発生したとは考え難いけれども、本件交通事故による衝撃が右のような外力のひとつとなり得たこと自体は否定できず、かつ一般的に、基盤として外傷性頭頚部症候群が存在し、そこに骨化症が併存ないし併発することによって、程度の差はあれ、全体の症状が重くなることが通常であることが認められる。そうすると、本件の場合、前記乙川の症状に石灰化ないし骨化が何らかの影響を及ぼしているとしても、その症状全体について業務起因性を認めて差し支えないというべきである。
よってこれらの点についての所論は採用できない。
三 次に所論は、本件解雇当時、乙川においては休業加療の必要がなかった旨主張する。
そこで検討するに、業務上負傷し、その療養のために休業中の労働者を解雇することを制限した労働基準法一九条の法意は、右のような休業という事柄の性質上、使用者に対する関係で不利な立場ないし状態に立ち至った労働者につき、その労働力が回復されるまでの間、その労働契約上の地位を維持することによって労働者の生活の安定を確保することを期するものと解される。そして、このような法の趣旨からすると、負傷した労働者がそのためにする療養の要否、及びその療養のための休業の要否については、これが常に客観的、絶対的に正しいとされる医学的見地からしてその要否を実証され、根拠づけられることまでも要求されている訳ではなく、その負傷ないし療養の時点における通常一般的な医療水準に基づいて合理的に判断されれば足りるというべきである。
これを本件について見れば、確かに所論が指摘するように、乙川の主治医というべき松浦医師において、前記石灰化が前記交通事故により生じたものではないかと考え、乙川の主訴の多くがこれによるものであり、同人の治癒ないし症状軽快がはかばかしくないのもそのためであると判断してこれに関する治療を続けていたのに対し、石灰化あるいは骨化症の権威者のひとりとされる<証拠>においては、右骨化症についての現在の最先端の知見からすると、本件の骨化が前記交通事故のみから生じたものとは考えられず、その骨化像の大きさからしてそれ自体がさ程重篤な症状を来すものとも考え難く、またこれが外傷性頭頚部症候群の症状に及ぼす影響もそれ程大きいものとも考え難いとされていることが認められる。
しかし、それと同時に<証拠>によれば、骨化ないし骨化症というのは、昭和五〇年代に入って厚生省が組織した特別研究班が活動を開始して以来ようやくその研究が活発となったが、その正確な発生原因ないし機序はいまだ不明であり、症状に応じた的確な治療法もまだ確立していない等なお未解決の問題を抱えた分野であること、その研究の最先端の立場からしても、本件当時現実に右乙川の治療に当たっていた一般臨床医である松浦医師において、前記のように骨化像を発見してこれを重視し、前記交通事故や患者の主訴と関連付けて、その治療上更に慎重な態度を取ったことについては十分これを理解できるとし、また治療のために休業する必要があったか否かについても、その当時実際に診察した者の立場でないとその実態を云々することはできないとして、暗に主治医である松浦医師の判断を尊重すべき旨を示唆していることが認められるのである。
そうすると、前記松浦医師の診断ないし治療は、骨化ないし骨化症に関する現在の最先端の知見からすると若干異論の余地があり得るにしても、その当時の一般臨床医の水準からすれば特にこれが誤った診断ないしはそれに基づく不必要な治療として問題とすべき程のものとは考えられず、このような同医師の診断等に基づいて、本件解雇当時、乙川においてはなお前記交通事故に基づく外傷性頭頚部症候群等の療養のために休業中であったとした原判決認定、判断は、前述した法の趣旨からしても、けだし相当というべきである。所論は採用できない。
四 更にまた所論は、被告人においては、本件解雇当時、既に乙川が休業加療する必要はなかったと認識していたと主張し、本件犯意を否認するかのようであるが、かかる療養及び休業の要否の判断基準については既に述べたとおりであり、その基準に照らしても、本件解雇当時、乙川においてなおこの業務に起因する外傷性頭頚部症候群等の療養のために休業の必要があったと認めるべきところ、関係証拠によると、被告人においても、その当時、乙川が引き続き医師の診察を受けながら休業を続けるとともに、右医師の診断に基づいて労災保険による休業補償請求手続をしていたことを認識していたこと及びそれにもかかわらずあえて右乙川を解雇する挙に出たことが明らかであって、これらの事実からすれば、被告人につき本件犯意の存在を優に肯認し得るものというべきである。所論は採用できない。
以上のとおり、その余の所論を考慮しても、原判決には判決に影響を及ぼすべき事実誤認は存しない。論旨は理由がない。(なお、念のために付言するに、原判決の(罪となるべき事実)には、被告人甲野一郎が被告会社の代表者代表取締役である旨の記載がないけれども、原判決の被告会社及び被告人の表示、判示内容、適用条文を総合すると、原判決は被告人甲野一郎が被告会社の代表者代表取締役であり、かつ本件違反の行為者である旨を判示しているものと認められるから、この点を捉えて特に理由に不備があるとするまでの必要はない。)
よって、刑事訴訟法三九六条に則り本件各控訴を棄却し、当審における訴訟費用については同法一八一条一項本文によりその二分の一ずつを各被告人に負担させることとして主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 村上保之助 裁判官 平弘行 裁判官 藤戸憲二は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 村上保之助)